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ボーイズ・オン・ザ・ラン論

エゴイズムによる現代劇






2010年1月23日 更新



あらすじ

「土下座」か「決闘」か。
「負け組み」か「勝ち組か。
いい人か「獣」か。

選択せよ、その人生。

― 田西敏行27歳。
流されて、三十路目前。

走り出すなら今しかないぜ、ボーイ。



作者:花沢健吾
単行本:全10巻
出版社:小学館
連載:週刊ビッグコミックスピリッツ 05年第36・37号〜08年第28号









「ボーイズ・オン・ザ・ラン」連載中に行われたweb上のインタビューで、作者の花沢健吾は作品についての解説でこのような言葉を述べた。




「(中略)せっかくなので女性批判はしていきたいと思っています。自分の中にいろいろな憎しみとか、暴力衝動とか、そういうものがあるんですよね。
そういうのをまず描いていこう、その対象になるものは何かと考えると、いろいろとあるんですけど、身近に何があるかと考えると、そういう不条理だったり理不尽だったりするんですよね」




 2005年よりビッグコミックスピリッツにて連載を開始した「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は二面性を持つマンガであった。
一つは、27歳、平社員、人生崖っぷちに立たされた男、田西敏行が現実の中で抗っていく姿。
そして、もう一つは物語の当初、ヒロインとして位置づけられていた植村ちはるがアンチヒロインへと堕ちて行く姿。



 この二面性こそが、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の持つ特性であって、それはコインの表裏のように実に密な関係として描かれる事になる。
そして、その裏に位置する事こそが、先のインタビューで作者が述べている「女性批判」に繋がるのだろうと予測される。



 「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は構造の漫画である。背景を中心として、それに沿うように物語が進んでいく。
まず、物語構造の主としては、仕事にしても、趣味にしても、何にものめり込めないで、闇雲にダラダラと27歳まで過ごして来た、田西敏行が、特定の異性からの承認による自己実現を目指して、本気で走り出す―という、基本構造がまず前提としてこの物語には存在する。



 そして、その承認を求める相手として、まず登場する人物が植村ちはるである。
植村ちはるは、田西と同じ斎田産業に勤める、人懐っこい笑顔と八重歯がチャームポイントの23歳の女性である。
第一話の時点で、植村ちはるは、田西の描く妄想として、フェラチオをしてくれる女性として登場する。
 しかし、第一話でスポットが当たっている女性は、後に田西が入るボクシングジムのトレーナー大巌花(ハナ)である。
童顔で黒髪のショートカットの植村ちはるに対して、ハナは大人びた顔立ちにロングの金髪と全く対照的な人物として二人は描かれる。
 また、最初から現実社会に介入してくる人物であるハナに対して、植村ちはるは当初、田西の妄想の中に登場する人物として描かれる。
この第一話での構図こそが、作品の縮図となっているのである。



 第1話でハナが貼った絆創膏は、第2話に現実社会に初めて登場した植村ちはるの手によって張り替えられる。
田西の目指すべき承認の相手、すなわち物語のヒロインの女性が移り変わった事が、ハッキリと物語の中に提示される。




第2話 「植村ちはる」

植村ちはる「絆創膏取り替えた方がいいですよ」

田西「あ・・・うん(これで、縁が切れた)」




 植村ちはるという女性は、男の願望、又は欲望としての幻想を、そのままデフォルメしたような存在である。
田西の事を、物語当初「お兄ちゃん」と呼んでみたり、田西の貸したアダルトビデオを「頑張って見ます」と言ってたり、可愛らしい顔立ちをしているのに、処女であったり。
 それは、同時に田西にとって(又は著者)にとっての妄想の人物なのである。
妄想があるが故に、元々が虚像である物語の中では、願望としての女性として田西の目線の立って感情移入していく事が出来るのである。



植村ちはる初登場時の、田西の心の声。




第2話 「植村ちはる」

「妄想なんか、妄想なんか目じゃない!! 現実ってすばらしいっ!!!」




 もちろん、ココで田西の言う妄想とは、第一話での田西の妄想の中での植村ちはるであるが、妄想の中だけの人物が現実社会(漫画の中の)に介入してくる事を、暗に示しているのである。
 妄想の人物としての植村ちはるを手にする事(即ち異性からの承認)を目的として、当初、物語は進んでいくが、そこに描かれる構造は、ヒロイン(植村ちはる)と付き合いたいと願う、非モテ(田西)という安易な構造である。




構造1

田西(非モテ) → 植村ちはる(ヒロイン)




 これが、最初に述べた異性からの承認による自己実現を目指す物語構造である。
しかし、これをスタートラインに物語は大きく変貌を遂げていく。
田西は、物語序盤にして、早くも植村ちはるからの好意を得て、ヒロインからの承認を受ける所まで漕ぎつけるのである。
 しかし、田西は妄想として光臨していた植村ちはるからのフェラチオではなく、金銭により幾らでも手に入るソープ嬢からのフェラチオを望んで、その一部始終を植村ちはるに見られてしまって、一気に二人は険悪ムードに変わってしまう。
ココで構造2が現れる




第18話 「すっぴん」

「ちはるちゃんは、笑いながら泣いていた」




構造2

田西 → (一時の快楽を望んでヒロインを傷をつける) → 植村ちはる(傷つけられたヒロイン)




 植村ちはるの想いは、田西に傾いていて、そして、田西もそれを望んでいると想い、傷ついた植村ちはるは、ライバル会社であるマンモスの青山の方に想いを覆す。
 しかし、結果的に、植村ちはるは青山に捨てられ、子供を身篭ってしまい、悲劇のヒロインとなってしまう。
ココで田西が一念発起して、植村ちはるの為にと、私利欲望を交じり合わせて青山に仕返しをしようとする。
これが、物語最初の山場となる構造である。




構造3

田西 →(傷ついてるヒロインの為に頑張りたい)→ 植村ちはる(主人公に裏切られ、恋人に捨てられた悲劇のヒロイン)




 植村ちはるとは、男の願望を妄想のまま、具現化した妄想ヒロインである。
第一話で田西の事を、「お兄ちゃん」と呼ぶ描写は、妹系キャラ(つまりはロリコン嗜好)として君臨していたのである。
 それは、植村ちはるが処女であるという点に置いて決定付けられており、その点で植村ちはるは、しほなどの他の女性人物とは明らかに異なる、田西と唯一等角線上で接する人物として描かれてきた。
 しかし、青山と付き合い始めた時点で(即ち処女を損失した時に)、植村ちはるの青年化が進んで植村はヒロインからアンチヒロインへと変貌する(少女から女性へ)。
この変貌とは、作品に置いての妄想系ヒロインの少女としての立ち位置から、一般女性への変貌の姿を告げている。



この変化は、田西がしほとディープキスをした事を植村ちはるに告げる時に放つ、植村ちはるからの一言で打ち出される。




第24話 「傍観者達」

田西「あのっ、俺、この間、しほさんと会って、チュ・・キ、キスをしたんだ。ディ、ディ・・ディープキスも、し、したんだ・・・」

植村ちはる「・・・(クスッ)良かったですね」




 物語は、一度は裏切ったものの、既に恋人に捨てられて傷ついた悲劇のヒロイン、植村ちはるの為に、己をぶつける愚直な主人公、田西の痛いほど切実な体当たりの行動に動き出すのだが、その時点で、既に植村ちはるは、当初の田西にとっての妄想系ヒロインではないので、植村ちはるは田西の行動に対して、それを嘲笑うかのような言葉を告げる。




第37話 「オンナゴコロ」

「こんなことして私が喜ぶと思った? もしかして・・・・私とヨリを戻せって思った? バッカみたい」




この言葉により、植村ちはるは、妄想的ヒロインの座を降りて、田西が承認を求める相手ではなく、田西を手で転がす女性へと変わっていく。




構造4

田西(ただ、愚直に突き進むピエロ)  →  植村ちはる(田西を手で転がすアンチヒロイン)




 これ以降、物語の植村ちはるのアンチヒロイン化は更に加速度を増していき、ただ、己の信じた道をひたすら走り続ける田西との間には、大きな霹靂を産み出す事になる。
そして、物語は田西の唯一の武器である必殺技を、闘いの前日に植村がちはるが青山に密告した事により、物語は植村ちはるを悪女として認定を下す。




第45話 「悪い女」

青山「サラリーマンアッパーだっったっけ? ちはるから聞いたよ」




ココで見えてくる構造とは、ただ、愚直につき進みバカを見た哀れな主人公と、影で薄ら笑う女性の影である。




構造5


田西(愚直ななバカ)   →   植村ちはる(悪女)




 この作品の主張の一つは女性批判であり、それを体現している象徴は植村ちはるである。
植村ちはるを悪女として物語は認定を下したが、そこには巧妙なからくりがあり、構造(1〜5)を順に追っていく中で、田西に感情移入をした読者に、植村ちはるが悪女として思わせるよう、巧みな誘導尋問が引かれているのである。



 物語の第一部の終わりに、青山にコテンパになりつつもホームに迎えにやって来た田西の対して、植村ちはるは青山を気遣う言葉を放ち、田西は自分の中の妄想ヒロインを物語から追い出す言葉を口にする。




第49話 「あさま533号」

田西「バキュームフェラ出来るんだって? だったら俺にもやってよ」


植村ちはる「いいよフェラチオぐらい」




 植村ちはるのフェラチオとは、作品内に置いて物語当初で描かれていた、妄想の中での願望の行為であり、植村ちはるがそれを容認する事とは、妄想の産物である植村ちはるが、そのまま田西の物語内部(現実)へと侵食する事を意味する。
植村ちはるが流す涙とは、田西の中から(妄想としてのヒロインの)自分が消えてしまった事を理解する決別の涙である。



 作品中に置いて、植村ちはるとは何であったのか、という事を論ずるならば、それは田西が現実としてのヒロイン(ハナ)に出逢うまでの踏み台となっている事が伺える。
元々、植村ちはるとは、男の願望的側面から産まれた人物であり、それは同時に男心を無闇操る憎むべき側面を持つ人物である。
作中に置いて、植村ちはるは願望としての、従順なヒロインを演じて、後にアンチヒロインとして散々、田西を振り回す役回りに徹した。
 この憧れと、憎悪こそが、男が女性に抱いている感情の表裏で、言ってしまえば植村ちはるとは、その二面性を完璧に持って産まれた人物なのである。
願望であるが故に、好意を抱くが、知らず知らずの内に大きな渦となって、それは周りを傷つけ、巻き込んでいく。
そんな身勝手な行動と、身勝手に好きになってしまう男の性、そんな問題定義を全て背負い込んだ人物こそが、植村ちはるなのである。
 先のインタビューで作者が述べていた、女性批判とは植村ちはるという女性の本質的な嫌悪感を、田西という愚直なフィルターを通して読者に届ける事にあるのだ。



 物語はこれで終わるわけではない。本来の意味でのヒロイン・ハナとの交流を軸に物語りは展開する。
ハナは耳が聞こえない。つまり、先天的に田西とは通じ合えないというハンデを最初から背負っている。
 だが、それは同時に(植村ちはるを含む)他の女性との徹底的な違いなのである。
田西を承認してくれる女性とは、心の汚れなき、ピュアな女性である。それは、男の処女願望的な象徴的な事柄である。
それらを記号的に表したのが、ハナの持つハンデであり、ハナの「耳が聞こえない」という設定は、そんな暴力的な発想から生まれている。
 田西はハナからの承認を早い段階で受けて、恋人関係の仲まで進みだす。
それでも、付き合い始めた時に、ハナからのフェラチオを断るのは、田西が妄想としての接触を拒み、現実としての接触を望んでいるからである。



 物語終盤の植村ちはるの再臨は、妄想ヒロインとして失堕からの復帰であり、東京で溜め込んだ傷跡をリストカットではき捨てながらの登場となる。
田西との再会時に、田西のデコの絆創膏をそっと指で押すのは、第2話で、ハナから植村ちはるへとヒロインの座が渡った場面を想起させる描写であり、事実上のヒロイン復帰を示唆する描写でもある。



 ココで特筆すべき点は、植村ちはるが兼ねてのポジションではなく、計画的に田西とハナの仲を壊そうとする、自覚的な悪女になっている点である。
もはや、植村ちはるは、田西の妄想の中のヒロインではなく、血を流し、暴言を吐き捨てる生身の女性として描かれている。
 それを強調するエピソードとして、物語当初は「お兄ちゃん」と田西を呼び、田西よりも下の目線に設定されていた植村ちはるが、
長野のエピソードでは、半ば田西の保護者的な立場の目線に立っている事が伺える。




第88話 「けんかをやめて」

植村ちはる「キョドって見せる癖、直した方がいいですよ、田西さん・・・。ズルイよ」




第89話 「ためらい傷」

田西「ちょ、ちょちょちょっとトイレ」

植村ちはる「あはは。手伝ってあげようか?」




 そして、ラブホテルでの田西へのフェラチオによって全ては結実させる。
植村ちはるのフェラチオとは、田西にとっての妄想を象徴する行為で、田西にとってのかつての妄想ヒロイン植村ちはるは、田西の現実社会を介する生身の女性となし得ているのである。
 それでも、植村ちはるの誘惑を乗り越えて、彼女のヒロイン復帰を阻止し、物語からフェードアウトさせる事こそが田西の成長であり、物語の一つの答えとなっている。



 物語は、妄想ヒロイン(植村ちはる)という二次元を凌駕して、三次元(現実としての)ヒロイン(ハナ)へと繋がり、その先に「家族」という極めて等身大の答え(男の自立)をエンディングに用意した。
 単行本エピローグに描かれる、田西が刑務所から出てくるのを待つ二人(ハナとシューマイ)の姿には、仮にどのような状態であっても、田西を承認してくれる人物は、家族であり、それは、絶対的な安堵である事を表している。
(田西にとっての両親を介しての家族とは、モラトリアムでありそこからの離脱を示唆している)



 エピローグで舞台から完全に姿を消した筈の植村ちはるが、絶えず田西を下げずむ言葉を口にするのは、最後の最後まで、彼女は自身の役割を全うした事の表れである。
それは、田西がモラトリアムである家族(両親)から、家族(ハナ、シューマイとの)へと帰結する事(男の自立)と対になっているのである。



ちなみに、植村ちはるの変貌の推移を確かめる上で、極めて重要な会話が一つある。




第88話 「けんかをやめて」

田西「知ってんだよ。斎田産業にいた頃、その思わせぶりな態度に勘違いして告白、玉砕して会社をやめていった人、何人もいたしね」

植村ちはる「会社の事なんて知らないわよ。みんなに親しく接して、何が悪いのよ。大体、私あの時処女だったもん!!」




 ここでの田西の言葉には、思わせぶりな態度で男心を弄び、周囲を巻き込み破滅へと誘う、植村ちはるという人物の原型を直接的に表現する言葉を投げかけている。
 それに対しての、「その時は処女であった」という植村ちはるの言葉には、その時にはまだ何も知らない、まだ妄想系ヒロインの頃の自分であったという事の主張になる。
それは同時に、処女であった頃は、妄想系ヒロインとして君臨していて、打算も、考えも何もなくピュアなままであったという事になる。




第90話 「ご休憩」

田西「ちはるちゃんも昔のようなピュアな気持ちにもど・・・」

植村ちはる「ボッキしながら説教しないでよ」




 植村ちはるは少なくとも処女の時には、打算も、考えも何もなくピュアな状態であったのだ。
それが、処女を損失した時に、悪女としてアンチヒロインへと変貌するという事には、詰まる所、田西に処女を捧げなかった事(原罪)が大きく関わっている事になる。
 これこそが、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の核であり、この作品の「女性批判」と「男の自立」という、二つの大きなテーマの中に隠された徹底したエゴイズムである。



それは、自分に処女を捧げなかった植村ちはるの失墜然り(女性批判としてのエゴ)。
自分を徹底的に罵った青山の後日談然り(男の自立としてのエゴ)。



それら全ては田西の分身である作者の内のパワーが生み出すモノで、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とは作者・花沢健吾の徹底した究極のエゴイズムが覆う現代劇なのである。



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