秋刀魚の味




2009年8月31日 更新



あらすじ

平山(笠智衆)は同窓の友人河合(中村伸郎)から娘路子(岩下志麻)への縁談話を持ちかけられる。
母親の死後、父の平山と弟(三上真一郎)の面倒を見ていた路子を、平山はそろそろ嫁に出さねばならないと考えはじめる。
そこでその縁談を勧めてみるが・・。



公開 :1962年11月18日
制作国 :日本
上映時間 :113分
監督 :小津 安二郎
脚本 :野田 高悟 小津 安二郎
配給 :松竹


出演者

岩下 志麻  笠智 衆  岡田 茉莉子  三上 真一郎







 不思議なもので、おれは巨匠と呼ばれる人達の映画を映画館で観るとき、どうも最初の一本が遺作であることが多い。
黒澤明は「まあだだよ」だったし、ジョン・ヒューストンは「ザ・デッド」、フランソワ・トリュフォーは「日曜日が待ち遠しい!」といった具合だ。
だから今日、初めて小津安二郎の映画を観るにあたって、それがたまたま遺作である「秋刀魚の味」にぶつかったことに運命を感じずにはいられなかった。
それが幸か不幸か分かるのはまだまだ先かも知れないが。
高田馬場にある映画館「早稲田松竹」を訪れたのはコレで三度目だったと思う。
最初にキューブリックの「アイズワイドシャット」、二回目に「書を捨てよ。街へ出よう」と「田園に死す」を観た。
ここまでのラインナップを観れば分かるように、いわゆるメジャー向けの映画はあまりやらず、主に芸術映画、前衛映画、巨匠たちの映画が公開される。
場内に若い客がいたなら、それは高い確率で早稲田大学の学生だ。
おれは大学には全く興味がなかったが、名画座が歩いていける学校はやっぱり羨ましい。
チケットを買っていると後ろから声を掛けられた。
「君、早稲田の学生さん?」おじいさんだった。いえ、と答えると「小津はいいよ。情があるから。この映画館、マナーにうるさいから気をつけな」それだけ言っておじいさんは場内に消えていった
襟を正すような気持ちでおれは座席に腰を降ろした。
心地よい緊張感が体にみなぎっていた。映画が始まった。
しばらくしてどこかから変な臭いがしているのに気付いた。
臭いの元を辿ると、さっきのおじいさんが魚肉ソーセージを片手に酒を飲んでいた。
おれはしばらくの間、禿げ上がったおじいさんの後頭部に、思い切り蹴りを入れたい衝動に駆られていた。

何なんだ、これは―――

これは乙一の小説ZOOの帯のコピーであったが、「秋刀魚の味」には同じ言葉が頭に浮かぶ。
昔の映画、というといわゆるクラシック、古典として観てしまい、多少のテンポの遅さや演出の古臭さなんかは、これが名画だという意識にかき消されてしまう。
いや、時にはその古臭さが逆に良い、というオールドファンも少なくない。
おれも30年以上前の作品を観るときはあらかじめその覚悟を無意識にしているような気がする。
ところがこの「秋刀魚の味」。息が止まりそうになった。こんな映画観たことがない。
初めてキューブリック映画を観たような衝撃。
画面から直に伝わる斬新な、もっといえば異質な映像感覚。
作ろうとして作れるんじゃなくて、元からそういう発想が人間の頭には絶対にないのだ。
「天才」。思わず使い古され過ぎている賞賛の言葉が浮かぶ。
言葉にすると陳腐になるがいくつか挙げさせて頂こう(出来れば映画館で見て欲しい)。
あの有名な小津のローアングルショット。
これは頭の中で想像するのと、実際一本作品を観て知るのとではワケが違う。
画面全体の安定感。細部まで見渡せ、かつ細部まで完璧な(それは小道具から指一本の演出まで)画面構成。
以前、「生まれてはみたけれど」を観たことがあったが、あれよりずっと繊細になっていた。
小津はカラー以降とモノクロで大きく分かれる監督だ。次にオールフィックスという驚き。
普通はそんなことをすれば退屈になるところを正面からのカットバックを会話ごとに切り返すことで不思議な(それでいて不気味な)印象を与える。
これはおれが観てきたどの映画もやっていないことで、おそらく簡単に真似の出来ないことなのだろうと理解した。極めつけは小津のカラー感覚だ。
「秋刀魚の味」はどのカットを観ても、必ず「赤い」物が画面のどこかにある。
それが唐突な「赤」なのだ。普通、そんなところにドギツイ赤色の小道具を置いたりしないのに、小津はそこにポンと置いている。
そして全体を支配する濃厚な「緑」。この二色が絶えず画面に配置されることで、観客は普段見慣れている「カラー」を見直す。
エンディングでカメラ会社のところに「アグファ」と出ていた。
たしか「アグファ」というのは、よりカラーを濃厚に焼き移すことのできるフィルムだと聞いたことがある。
通常カラー映画と言うのは、普通に映ってさえいれば全体の色のために物をどかしたり、また用意したりしないものだ。
小津のカラーは画面にある色さえも「主張」なのだ。そうすることで画面一枚に知らず知らずに引きつけられる。
単調な話なのに観ている内に興奮してくる。
これぞ小津マジック。ストーリーにも触れなくちゃいけないんだけど、実は語るべき内容はそれほどない。
一応付け加えると、主人公は50過ぎの部長さん。
娘がいて、もう24なので嫁に出したいなあと思いつつ、妻が逝ってしまったので家事全般を任せているため言い出しにくい。
ある日、昔学校の先生だった人を電車でみかけ、仲間を集めてクラス会を開く。
前は偉い先生だったのにすっかりくたびれている。
聞くと娘がいるが家のことを任せているので長いこと嫁にやれず、彼女はすっかり齢をとって険悪になっている。
そろそろウチのも出さんとマズイなと考える。その他色んな人達の意見もあり、とうとう嫁に出すことを決意する。
彼女が出て行って、寂しいなあと背中を丸める主人公。終。
暴力もなければ、ラブロマンスもなく、ただしみじみと主人公の孤独が伝わってくる独特の映画になっている。
しかしこれはあらすじを読んで詰まる詰まらないではなく、まず小津マジックを体験して初めて感動できるものだ。
そういった意味で小説などとは違って、真に映画的であるとも言える。
ただ、映画を観ていて、何人の観客ががこれらの異質な部分に気付いているのだろうかと思った。そういう表面的な凄まじさをキャッチできないと面白くない。
これは新ジャンルと呼んでいいかもしれない。そんな映画もあるのである。














2009年1月2日 早稲田松竹にて鑑賞


一覧に戻る