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愛のむきだし




2010年1月25日 更新


あらすじ

敬虔(けいけん)なクリスチャンの家庭に育ったユウ(西島隆弘)は、ある出来事を境に神父の父(渡部篤郎)に懺悔を強要され始める。
父の期待に応えようと 、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウ は女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。
そんなある日、運命の女ヨーコ(満島ひかり)と出会い、生まれて初めて恋に落ちるが・・・



制作国 :日本
公開 :2009年1月31日
上映時間 :237分
配給 :ファントム・フィルム
監督・脚本 :園子温



出演者

西島隆弘 満島ひかり 安藤サクラ








 四時間近くある映画と言うのは意外に多い。
古くはグリフィスの「イントレラン ス」から始まり、ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」、ベルイマンの「ファニー とアレクサンデル」、アンゲロプロスの「旅芸人の記録」etc・・・いずれも名匠 揃いである。
 日本で言うと「七人の侍」があるが、これはもっと短くしろという配給会社の人 間をラッシュの面白さで打ちのめし、早く続きを作ってくれとせがまれた逸話がある。
しかし、黒澤が「羅生門」でヴェネチア国際映画祭のグランプリを獲って いなければ、やはり無残にズタズタにされていただろう(事実「白痴」はどうしようもなく削られてしまった)。
つまり、世界的に名誉ある巨匠であるからこそ 、一本で普通の映画が二作観れるような上映時間が許される。
逆に言えば、それだけの長尺で配給会社にウンと言わせるには、世界に認められた結果が必要と うことになる。
だから「紀子の食卓」が海外の賞をいくつも獲り、園子温の名前が世界中に轟 た後に、四時間近い作品である「愛のむきだし」が作られたことは偶然とは思えない。
園監督自身がその期を待っていたかは定かではないが、日本の配給会社が 園子温を認めざるを得なくなったのは言うまでもない。

おれは「エクステ」以降、園監督の大いなる逆襲が始まったと確信している。
園監督はその作品の多くを、良識とは逆を行くアウトサイダー的なもの、人が目を背けたがる人間の本質を扱ってきた。
ティム・バートンが「スウィーニー・トッ ド」で大量の血を見せれば「キャーコワーイ(笑)」となるが、園監督がその半分の血の量で映画を撮ると「・・・」となってしまう。
それは現実以上にリアル だからであり、その本質を人間の裏返しとしてまざまざと見せ付けられるからだ。
「愛のむきだし」では、それが「変態」と「宗教」いうキーワードとして表れ 、「常識」に襲い掛かる。
この「常識」という観念は、人間の本質ではなくフィ ルターである。そのフィルターを形だけでも外すために、まず四時間という長尺が用意されている。「愛のむきだし」の映画の入り口である。
 とはいえ冒頭の30分は少々たるい。こんな調子で四時間観るのかと思いきや、 さすがは園子温、ちゃんと計算している。
そこからの怒涛の展開はまさにジェッ トコースター。「紀子」でも使っていた各登場人物のエピソードが絡ませていく 手法で、漫画を見ているようにザクザクのめり込ませていく。
そう、この映画は しばしば少年漫画的なところがあり、挿入曲の入り方やタイトルの出し方もク くて無類にカッコいい。
キャラクターもコミカルで、こういう遊びは今までの園 作品にはみられなかった。
作中の無理な設定もそういった遊びやカットでどんど ん乗せられていくので、時間感覚としては1時間半の映画を観たような気分。
こ の映画、途中観客のために休憩が挟まれるのだが本当に必要なかった。そのまま のテンションで十分観れる。
また登場人物たちが全員良くも悪くも見れるのがいい。サヨク的な意味でなく、 「変態」や「暴力」や「マイノリティなものに対する信仰」は我々の中にも同居 しうる要素であり、「常識」もまた宗教のような洗脳のひとつだと言っているように感じた。
 そこに「主観」はなく、映画が「答え」を導いてくれることを期待 してはいけない。
あくまで観客=我々にその「答え」が委ねられている。雑誌の 評論家の言葉やルポをみて分かったような気になっているのが一番馬鹿だ。
主人公たちの「愛」に共感するのも良し、「常識」に立ち返って「絶対おかしいよ、 こんなの」と毛嫌いしたっていい。
そこに無理強いはない。これは主張ではなく 提起なのだ。
前作「紀子の食卓」では擬似家族の形成と崩壊がベースになっていた。
「愛のむきだし」もそれに負ってはいるものの、物語と人物の人間関係が非常に流動的であった。
「紀子」は物語の性質上、家族の関係に図式的なところがあったが、今作では見事にそれが払拭されている。
これは素晴らしかった。マリア=ヨーコが つながったときに、良くあるサブカル的な作品のように神話になぞらえたりするのかと心配していたのだけれど各人が神々のポジションに収まることなく、新し い家族の形が形成されていた。

 ただ、残念だったのは「紀子」でも登場する「組織」という存在の描き方だ。
前作では家族そのものに重点が置かれていたので、各人の感情から組織の内幕を感じ取ればよかった。
しかし、「愛のむきだし」は「組織」の動きと目的が物語を大きく動かすので、徹底的にその内部も描かなければならなかった。
背景という にはあまりにも存在が大きすぎたためだ。「純愛」というテーマに邪念を持ち込 みたくなかったのだろうがここは少し点を落とす。
  最後に興味深かったのが、中盤辺りで観客が笑う組と笑わない組に分かれていたことだ。
「変態」的なものを目の当たりにすると、人は嘲笑する。
 が、それが突 きつけ続けられると己の内面と向き合うことを余儀なくされる。
笑わなくなった人が変態だというつもりは毛頭ない。ただ、映画の遊びよりも真剣に心に目を向 けていたのは事実であるが、途中でも書いたように、笑いながら観ようが黙ってスクリーンを見つめようが、どちらも正解なのだ。
「答え」は自身の中にある。 そして園監督は間違いなく主演の二人に恋をしている。
そうでなければ撮れないカットが多すぎる。ベットでもだえるヨーコ。女装するユウ。
馬鹿馬鹿しくも、 艶やかに映るこの二人に園子温の「愛」を見た。















2009年2月8日 渋谷ユーロスペース2にて鑑賞


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