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パラノイドパーク






2010年3月22日 更新



あらすじ

16歳の少年アレックスは始めたばかりのスケボーに夢中。その日も、スケボー少年の聖地・パラノイドパークに向かった。
しかし頭をよぎるのは家族の事や彼女のジェニファーの事ばかり。不良グループに声をかけられたアレックスは、スリルを味わうために貨物列車の飛び乗りに参加する。
その時、ふとした偶然から鉄道警備員を死なせてしまう。
不安に駆られながらも、何事もなかったかのように日常生活を送るアレックスだったが…。

制作国 :アメリカ=フランス
日本公開日 :2008年4月12日
上映時間 :85分
配給 :東京テアトル・ピックス
原作 :ブレイク・ネルソン
監督・脚本 :ガス・ヴァン・サント

出演者

ゲイブ・ネヴァンス テイラー・モンセン ジェイク・ミラー ダン・リウ





 この日は早稲田松竹にてガス・ヴァン・サント監督特集を観た。
独特のカメラタ ッチと社会風刺を盛り込んだストーリー、それを真っ向から描かず、あくまで側 面だけを描き観客に考えさせるので彼の作品は長い間頭に残ることが多い。
そんなガス監督の幻の処女作「マラノーチェ」が併映とあって、彼のルーツが作品か ら汲み取れることを期待して高田馬場まで来た次第だ。

 パラノイドパーク。何だろう。この不思議な響きを持った言葉は。空洞。洞窟のようなゴツゴツした肌触りでなく、ツルツルの無機質で、青白く感情の無い、それでいて騒動を静観しているような他者との位置、交わらない心地よさと自分の孤独を噛み締める場所。
そんな印象を受けた。そしてそのイメージは映像を観る ことでより強くなった。

 映画の中でこの言葉は、スケボー好きの若者たちが使う練習場の呼称である。正式名称はあるが彼らはそう呼んでいる。
大人や常識から一線を引くキーワード。マイノリティの合言葉。ところがそのパラノイドパーク近辺で殺人事件が起こり 、警察は学校にまで捜査の手を広げる。
 その日、スケボーをしに行った生徒はいなかったか、と。 この辺りがいかにもアメリカ的な捜査方法で日本とのやり方の違いに驚かされる。
未成年に胴体が真っ二つになった男の写真を教室の中で回すなど、日本では絶対にありえないだろう。
刑事も日本の警察が学生に聞くときのようにニコニコ顔でなく、終始容疑者を見るような厳しい顔。
途中、クスリをやっている(であろう)学生が喫茶店のウインドウの向こうで捕まっているカットもあった。
この街は最悪ではないにしても、常に張り詰めている日常が存在し、そこに慣れきっている人々の姿がある。
これがまず重要なポイント。この映画の苗床になる点である。

 この映画はミステリーではない。一番大きな謎はかなり早い段階で明かされるし 、青春モノというには陰に篭りすぎている。
強いてカテゴライズするならロードムーヴィーだろう。美しい少年の平凡な日常が狂っていく様を、やはり平凡(にみせかける)日々から追ってゆく。
そこに感情論は無く、心象風景と、少年の口 から語られるわずかなモノローグ、雑多な物音街の喧騒が包んでゆく。まるでワイドショーのニュースを観ている感覚に陥る。
そう、殺人でさえ、数分あるいは数十秒で切り替わってしまう多くの事柄に過ぎず、我々一般市民はテレビないし新聞やネットで事件の輪郭を飲み込んで納得するしかない。
被害者にも加害者にもなるという意識は毛頭無く、毎日早起きして学校なり仕事なりに出かけてゆく。繰り返される日常。繰り返される事件。
その関係は対極にありながら我々は毎日その生活と虚構の体験を繰り返す。ならば虚構の体験が実生活に流れ込んできたらどうしたらいいのだろう。あるいはそんなことは死ぬまで起こりうらないのか。そんなことを悩んだり、また考えなくても一日は当たり前に過ぎ去ってゆく 。
しかし、現実に人は殺され、埋められたり、バラバラにされたりしている。およそ1000〜2000、もしかすると100km圏内の地続きの日本で紛れもなく起こってしまった事柄なのだ。
それに自分が絶対に関わらないなどとどうして断言できよう?アメリカであれ、日本であれその関心度は大きくは違わないだろう。
この映画は不幸にも、ある事件に関わり、日常が捻じ曲がってしまった少年の絶望とそれを隠す矜持を描いた物語である。
他の監督がこの題材を扱っていれば、もっと善や悪、ティーンエイジャーのヒロイックな悲劇を大々的に祭り上げていたかもしれない。
ガス監督はそのもっと手前、裁きや法律など、社会のメ スが入る直前だけを切り取って映画にした。だからこそ少年の繭を見ているよう な不思議な余韻の残る作品になったとも言える。

 しかし「エレファント」ほど受け入れにくいのは、スローモーションを多用して少年にクローズアップしすぎているからだ。
これはガス監督が彼を本当に愛しているからなのだろうが(それは画面を見ていれば笑ってしまうくらよく分かる) 物語に集中したい観客はいい加減次のカット行けよ(笑)とちょっと飽きてきて しまう。
PV的な長すぎるサーヴィスカットは未公開のフィルムを家に持ち帰ってガス監督がゆっくり眺めればよい。
その愛情ゆえに撮れる素晴らしいカットも もちろんあるのだけれど。ただ、男の子たちを美しく撮るカメラが女の子を映すとあそこまで不細工になるのはちょっと笑ってしまった。
ガス監督が興味ないに してももうちょっと可愛く撮ってやれよ、と余計なツッコミを心の中で入れてし まうのであった。



2009年4月21日 早稲田松竹にて鑑賞


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