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グミ・チョコレート・パイン






2009年7月25日 更新



あらすじ


大橋健三は高校二年生。学校にも家庭にも打ち解けられず、猛烈な自慰行為とマニアックな映画や、ロックの世界に浸る冴えない毎日を送っている。
ある日、健三は親友のカワボン、タクオ、山之上らと「俺達は何かができるはずだ」とロックバンドの結成を決意するが・・・。
あふれる性欲と、とめどないコンプレックスと、そして純愛のあいだで揺れる愛と青春の旅立ち。
大槻ケンヂが熱く挑む自伝的大河小説。



著者 :大槻ケンヂ
発行 :角川書店

グミ編 :1993年8月発売
チョコ編 :1995年10月発売
パイン編 :2003年11月発売














■ ハイジン

 それでは、始めて行きたいと思います。
えーとですね、まずは「グミ・チョコレート・パインを」一読した際に感じた最初の印象から、話を進めていきたいんですけど。
俺は、最初に読んだ時は、単純に一人の少年の通過儀礼的な話だと思ったんですね。
だから結構、特殊って言い方したら変なんですけど、色々と自分に対して何か価値があるっていう風に想い悩んでいる、割りと誇大妄想が炸裂しちゃっている男の子が、どうゆう風に大人へと変わっていくか、っていう所を描いた作品という印象を覚えたんですね。
入り口は狭いんですけど、僕自身も読んでて、共感というか、自分に対して当てはまっていく所が結構あるんですね。
それは、同時に読む人全員に対しても当てはめられていくような、そうゆうような部分を多く見つけたんですよ。
それはなんていうか、例えばバンドがやりたいだとか、クラスに山口美甘子のような女の子が居る、という事ではなくって、ケンゾーの思想とか、考えている事だとか、そうゆう目に見えない抽象的な野望なんかが、割と広く受け入れられるような、そうゆう構成になっていると思うんですね。
で、それは鬼気迫るというような事とは違うんですね。
 だから、これは、もしも高校生が書いているとしたなら凄い鬼気迫る作品になってたんですよ。
だから、読んでいて感じた事は、結局の所、大槻ケンヂがある程度の成功を収めて、寛大な広い心を持っているからこそ描ける作品であって、例えるとなら100Mを10秒で走れるような選手が居たとして、そうゆう人は別に100Mを15秒でも走れるわけだから、そうゆう選手が、余裕を持って走っている、というようなそうゆう所が広く受け入れられるキャパシティになってるんだろうな、って事を思いましたね。






■ ニクロ

 まず、俺は大槻ケンヂについて話したいんですけど、大槻ケンヂのケンヂって、賢いに二なんですね。
主人公の名前は、賢いに三で健三なんです。この時点で、自伝小説として投身する事を読者に言い聞かせてるわけなんですね。
こうゆうバンド、ようは人が聞かないような、アンチなパンクな音楽っていうのを自分がやってて、で、作中でも自分BOXとかが観客に受け入れられていく様って、結構、宗教に近いものがあったと思うんですよ。
大槻ケンヂも第一線で、バンドブームの時に第一線でやってたわけだから、自分がほとんど、宗教観念というか、神に近いような感覚でやってたと思うんですね、そうゆうバンドの第一線という所を。
で、ケンゾーというものも、その第一線を見つめる側に居る少年で、憧れから入って、で、バンドをやろうって形になるんですけど、結局、大槻ケンヂがケンゾーを生み出したのって、大槻ケンヂが神のままで居たらヤバイと思ったからだと思うんですよ。
というのは、そのまま行くと、大槻ケンヂの一言で観客は右に左に動いたんですね、当時って。
で、そのままだと大槻ケンヂはヤバイ、と思ったと思うんですよ。
自分がこのままだと、そのまま自分が落ち込んでいっちゃう。それを客観的に、見つめる顔があったんだと思うんですよ。で、その裏返しがケンゾーだと俺は思ってます。
つまり、宗教観念に近いパンクから、現実に自分を繋ぎとめようとするもう一人の自分が居て、たけしが映画撮る時に、ビートたけしと北野武が居るように。
そうゆう事に対する自己防衛で生んだ人格が俺はケンゾーだと思ってますね。






■ 電脳BOY

 俺は、まず入り口が青春の金字塔。
そっから読み始めたんですけど、グミ編、チョコ編辺りは、ざっと読んだ感じ青春だなって思うんですけど、パイン編はホント、バカらしい話になってはいるんだけど、凄い人生を詰め込んだような感じになってて、青春の金字塔というよりは、人生のバイブルという感じは、ざっと読んだ感じでありますね








山口美甘子は象徴か?








■ ハイジン

 これを読んでて、切実に感じた事があったんですけど、最初にケンゾーが持っている思想。
「自分には何かがある」「俺は何か特別な事が出来る」っていう、これはさっきも話したように、受け皿としては、誰にでも当てハマるようになっていて、みんなが共有出来て、共感出来るからこそ、この小説は広く読まれていて、ある意味では結構、完璧に近いエンタメ小説だと思うんですけど、後半に入ると、その思想をかなりこじらせていくんですね、どんどん。
 それで、読んでて思った事は、ケンゾーが最初に持っていた、自分は特別なんだと思う思想ってのは、作中では同時に山口美甘子が、そうゆう思想の対比として出ていたんじゃないかなって読んでたんですね。
山口美甘子は、物語のヒロインで大槻ケンヂが憧れに近い形で描いてたと思うんですけど、「自分には何か特別な事が出来る」という、そうゆう特別な思想は、ケンゾーが高校生活の中で、それを支えに「自分は他の俗人間共とは違うんだ」っていう風に、自分に対して刷り込む事によって、高校生活を支えているような、転ばぬ杖として役目を果たしていたと思うんですけど、山口美甘子も同じくらい、ケンゾーの憧れであり、夢であったと思うんですよ。
でも、自分がどうしたら山口美甘子に近づけるのかという具体的な事は、ケンゾー自身には無いんですね。現実感的なものは。
山口美甘子に実際に近づいても、ケンゾーは結局の所、チョコ編で決定的な告白の場面があったけれど、そこでも言えないんですね。
だから、ケンゾーにとって山口美甘子ってのは、目の前にあるのに、自分が手を差し伸べたら取れるのに、取る事が出来ない象徴的な人として描かれていて、それは、最初にケンゾーが持っていた誇大妄想的な思想である、「自分には何かがあるんだ」っていう、それと全く同じモノとして山口美甘子は描かれていると思うんですね。






■ ニクロ

 俺も、美甘子は「象徴」だった派なんですよ。
現実の存在というよりは、物語の上でチョコレート役が美甘子だったと思うんですね。
まず、チョコレートがないと、この物語はスタートしないわけで。
 俺が考えているのは、グミはケンゾー、チョコレートは美甘子、パインは羽村だったと思っているですよ。
ただ、これってキャラクターの見方によっては、全然変わって来るんですよね。
例えば羽村だったら、最後の方ではもうケンゾーも自分もグミで、パインに大林森監督がいて、チョコートに美甘子が居るっていう。
そうゆう見方は、読者にも各キャラクターにも出来ると思うんですけど、チョコレートは美甘子ってのは変わらないんですね。
このグミ・チョコレート・パインって小説は、美甘子をみんなが追いかける話になっていて、やっぱり、追いかける姿勢っていうのは、あがきなんですよね。青春・・って言ったら、そのままですけど。
美甘子自身も悩んでる姿はグミ編とかチョコ編で、心理描写があるから、ある程度は人格化されてるんだけど、パイン編になると凄いですよね、もう。
人格が消えるとまでは言わないけど、完全に大槻ケンヂが物語的にヒールにしちゃってるやんか。
悪くないんよ、美甘子は。美甘子は悪くないんやけど、何でみんながこんなに苦しむかってのは、美甘子
のせいなのね。パイン編においては。
美甘子はホントに悪くなくて、ただ才能があって、自分の思ってる通りに振舞ってるだけやから。
美甘子は、最後まで変わらないキャラクターで全ての登場人物を引っ張るんだけど、俺が唯一美甘子が嫌だなと思ったのが、ケンゾーと一緒に映画を観に行って、映画論で論破するんすね、ケンゾーを。
俺ね、最近だとダルビッシュに同じ感情を抱いてるんだけど






■ 電脳BOY

どうゆう事ですか?(笑)






■ ニクロ

 ダルビッシュって、男前やんか? 俺は男前やと思う。シュッとしてるし。モデル体型やし。
「なんで、お前が野球やってるんだ」っていう。
美甘子は作中の中では、ホントにスタイルも良くて、顔もいい、みんなの話にもついていける明るい子、で、なんでお前が映画知ってるんだっていう(笑)






■ 電脳BOY

なんでも持ってるじゃねーか、みたいな(笑)






■ ニクロ

 実際に、(映画好きの)俺は嫉妬したんですね。
象徴って考えたくなるのも、俺が自分自身がグミ・チョコレート・パインの、グミである事を無意識の内に考えているんだろうなって思うんすよ。
思っててしまうからそうゆう嫉妬心が生まれてしまうんだろうなって。
だから、俺の中では、美甘子は象徴のキャラクターなんですね。








源氏名・山口美甘子の真意








■ ハイジン

うーんと、俺の中では、もっと「象徴」なんですよ。






■ ニクロ

もっと?






■ ハイジン

 もっと。ケンゾーが山口美甘子で、マスターベーションをしないと決めてるっていうのは、あれって結局の所、それをしてしまうと、ケンゾーが見下している俗人間共と同じになってしまう事だと思うんですね。
他の奴らと同じだと。山口美甘子でマスターベーションをする事自体が。
だからこそ、山口美甘子ではマスターベーションをしない、という、ケンゾーなりの神聖な思想を破った瞬間に、ケンゾーは落ち込んでいくんですね。
更にそこで羽村という、ケンゾーから見た像は描かれていないんだけど、俗人間の象徴として描かれていた筈の羽村を、山口美甘子と対等の人間を出す為に、妄想の中での山口美甘子とのセックスは、羽村を自分に置き換えてるんですね。
あの瞬間ってのは、ケンゾーが自分で自分を、俺は俗人間以下だって、完全に自分を下にしちゃってるんですね。
それで、落ち込んでしまうんだけど、この物語の中でのケンゾーの通過儀礼としてのイベントってのは、やっぱりどう考えても、俺はラストの源氏名山口美甘子との性行為だと思うんですよ。
これって、山口美甘子との間接的なセックスなんですよ。物語上としては。
あれはケンゾーが抱いていた「自分には何かある」という、誇大妄想的な思想と、ヒロインである山口美甘子、この二つの対比を考えた時、あの場面で源氏名山口美甘子と間接的な性行為をした瞬間に、ケンゾーの思想ってのは、ハッキリと変わるんですね。
この時点で、潜在的にケンゾーは山口美甘子を手に入れてるんですよ。






■ ニクロ

いや、俺は違うと思うな、それは。






■ ハイジン

でも、これって実際的に、当初持っていた、ケンゾーの「俺には何かあるんだ」っていう根拠のない誇大された思想が、山口美甘子との間接的な性行為の後では






■ ニクロ

間接というより、あれは直接






■ ハイジン

 いやいや、あれは源氏名・山口美甘子ってのは、比喩なんですよ。
比喩として山口美甘子とヤるんだけど、比喩であって、本当はやってないんですよ。
やってはいないんだけれど、ケンゾーの中では一つのゴールインなんですよ。物語上では。
だから、あの後にケンゾーの思う事は、「そうだ、俺にはカメラがあるんだ」って思うんですよ。
俺には、カメラがあるんだから、このカメラでバンドを撮っていこうという風に、ケンゾーの思考が変わるんですよ。
これって、最初に持っていた、「俺には何かあるんだ」とは、全くの間逆であって、それでいて、健全な考えなんですよ。
健全な考えというのは、グミ・チョコレート・パインの中では、俗人間の事なんですね。
だから、俗人間にケンゾーが落ちていく事が、この物語の終わりなんですよ。
だから、山口美甘子は最終的に、ケンゾーに対して冷たくあしらうんですよ。
言葉として「ケンゾー君は論外」というような事を言って。






■ ニクロ

 うーん・・・俺はね、ちょっと違うな。
俺はなんとゆうか、俗人間とか、俗人間じゃないとか、グミとかチョコとか、チョコレートとか、パインとか、あの、パイン編の後編ってのは、そうゆうのを乗り越えていく、大人になる為の物語だと思ってるのね。
で、あれは、ちょうどカワボンとタクオと山之上が、三人で飛び降りたケンゾーを追いかけて、喫茶店で話すシーンで、あの、みんながケンゾーに戻って来いよって言うのが、「青春っぽくてヤだな」みたいなトコがあったやん。
「これ青春みたいだな」みたいな。青春中の青春は、この物語にとっては俗なんですね。
で、そうゆう事をやっぱりグミ編は拒んで来たんよ。
確かに、失踪シーンとか、山口美甘子を全力で追いかけるトコとかは確かに青春って置き換える事も出来るけど、なるべくそうゆうのを排除したから、今までよくあった青春小説じゃない、ちょっと閉じこもった青春小説だったと思うんだけど、あの、パイン編の後半からは、羽村がバイクで飛んで来て、で、仲良くなって、シンペイも入ってチームになって、みんなで追いつこう追いつこう、完全なる青春小説になっていくのね。
それを、物語が拒まないんですよ。どんどん、どんどんいく。
もうスピーディーな展開が、本当だったらもっと倍くらいページがかかる所を半分くらいでどんどん、どんどんいく。
 これは、完全にそれまで青春を拒んできた小説が、青春小説になるっていうのは、俗な事も俗じゃない事も含めて、こいつらが線を取っ払って大人になろうとしているんですよ。
だから、俺はラストのライブ会場まで辿り着いて、みんなが光に包まれたって所で、これは一つ殻が剥けたんだなって。
青春って言葉そのものにも噛み付こうとしている小説やと思うんよ。
だから、パイン編でそれをちゃんと乗り越えたんだなって。






■ ハイジン

 それは、乗り越えたっていうのが、間違いなく当てはまるし、最初のケンゾーの捕らわれている、自分の可能性にばっかかりにしがみつかれているっていうのが、あれが最終的に自分のやるべき事はカメラがあるんだから、カメラを持てばいいんだってっていう、それに変わるって事は、俺としては落ちてるってイメージがあるんよね。
落ちてるっていうか、客観的に見たら成功してるっていうか、大人へと変わっていくわけだけど、ただ、なんとゆうか、風俗嬢とやってしまうっていうのは、なんかまだ自分の可能性を信じてやればいいケンゾーを、無理やり儀式的に大人へと上げちゃってるような気がするんよね。
無理やり上げさせられたから、ケンゾーは大人へと、思想的な意味で大人へと変わってしまっているんよ。






■ ニクロ

だから、俺はそうゆう事を言ってるんよ?






■ ハイジン

 そう、だけど、それは俺も決して間違っていないと思うし、それが正しい姿だと思うんだけど、ただ俺は最終的に山口美甘子が、ケンゾーを否定するっていう所で、あの否定っていうのは、山口美甘子が成功例だとして、最初の「俺には何かあるんだ」っていう所から見たら、山口美甘子は成功例で、ケンゾーというのは、その成功例が持っていた思想を無くしてしまって、地に足着いた道に行ってしまったって所で・・・






■ ニクロ

んん・・どうゆう事?






■ ハイジン

 最初に持っていたケンゾーの考え。
それは、山口美甘子も持っていたし、それで実際に山口美甘子は動き出した。
で、実際にケンゾーも動き出した。けど、ケンゾーは一度そこで立ち止まる。
立ち止まって、悩んで悩んで、悩んで悩んで、突破口を見つけようとするんだけど、その時に風俗嬢との、源氏名・山口美甘子との間接的な性交があって、それで、半ば儀式的(割礼)に大人へと上げさせられた。
それは、客観的に見た所では、大人っていうのはそうゆうものであって、自分に対してどれだけの可能性があると考えた所でも、そんなモノは動き出さなきゃわからないし、普通の人はある時期に折り合いをつけて、いい大学に入って、いい会社に入ったらいいんだって。
そうゆう気持ちを持つのが一般論だし、健全だと思うんだけど、このグミ・チョコレート・パインの中では、それは山口美甘子に否定されるような、「ケンゾー君は論外」と言われるような事で、あの物語の中では、ケンゾーは間違った意味で上がったと思っているんですよ。
あれは、エピローグだから捕らえ方の問題だと思うんだけど、俺は山口美甘子のケンゾーに対しての否定的な意見っていうのは、物語上では






■ ニクロ

でも、あそこで肯定的な意見が出たらもっとおかしいけどね、流れとしては。






■ ハイジン

いや、山口美甘子の立ち位置から考えたら、あそこでケンゾーを否定するっていう事は、グミ・チョコレート・パインの中では、ケンゾー君それじゃあダメ、って言ってるようなもんだと思うんですね。
そこでもっと突っ切らなきゃ、っていうような。






■ ニクロ

それは、応援って事ではないよね? 突っ切らなきゃ、ってのは。






■ ハイジン

 最初に持っていた思想を、曲げずにずっと。カメラがあるんだから、カメラで撮っていけばいいってのは、最初に持ってた思想とは、大きく変わる事で、それはもう大人になったっていう、そうゆう表しなんだけど、やっぱりあの物語の中では、落ちちゃった、っていうそうゆう印象があるんですよね。






■ ニクロ

その間接的な・・間接的というか、俺は直接だと思うんだけど






■ ハイジン

あれは、間接でしょ(笑)






■ ニクロ

それは、行為自体がって事?






■ ハイジン

だから、その、夢っていうのが、最初にあって、「俺は何か持っている」「俺は何か出来るはずだ」って。
それと、山口美甘子は一緒だと思うんですよ、ホントに。どちらとも。一緒であるんだけど






■ ニクロ

 俺が、言ってるのは、山口美甘子を抜きにしてよ? 単純に童貞卒業って意味よ。
俺は、その一歩がかなり大きい所だと思うんよ。
まず、よく爺さんが言ってた、「見る前に飛べ」って言葉を。
ボクシングで殴りあって、痛みを体験しろみたいな。結局、そうゆうモノの中にセックスという行為も含まれていると思うんよね、俺は。
で、山口美甘子をリンクするリンクしないって話しもよくて、俺、正直、山口美甘子って名前を付けた事自体が、別にお遊びって捕らえてもエエと思うんよ、作者自身の。
俺は、別にそこに意味を見いだせなくても、全然、完結する物語であると思うし、深読みしたい人は深読みしたらいいけど、一つ「見る前に飛べ」って事で強引に、童貞卒業まで引っ張られて行かれて、これも一つの「見る前に飛べ」なんすね。
で、そうゆう事を一つ一つ乗り越えて、一番最後にそのハードルを乗り越えて、あのラストって俺は考え方なんよ。






■ ハイジン

俺は、間違いなく(山口美甘子の名前は)リンクしていると思う派なんよね。






■ ニクロ

それは、どっちでもエエんよ、深読みしてもいいし、せんでもいいし。






■ ハイジン

いや、俺はそこに直接的な関係があると思っていて、やっぱり、あそこで山口美甘子じゃない名前で、それを処理してしまうと






■ 電脳BOY

 最後、あそこ美甘子って叫んでるんですよね。あの風俗嬢が、「山口美甘子とこんな事しているのよ」的な事を言って。
ケンゾーの妄想の中では、本物の山口美甘子とセックスはしてるんすよ。
台詞として美甘子と叫んでる。頭の中では山口美甘子を思ってるじゃないですか、あれは。






■ ニクロ

そうゆう事? ちょっと、俺、若干違うかなと思ったんだけど。






■ ハイジン

 気持ち的な問題だとそうだけど、俺は、記号的な話として。物語としての。
だから、何をして成功かっていうのは、イマイチないんだけど、もしも山口美甘子を対象にした場合だと、あれは、全く(美甘子に)近づいてないわけやんか?
山口美甘子とは全くの別人だし、ただ、そこで間接的でもやってしまう事によって、ケンゾーのゴールラインを引いてしまったんだろうなと。






■ 電脳BOY

妄想の方で完結してしまったと?






■ ハイジン

それで、補完されてしまった部分があるんじゃないかなと。






■ ニクロ

 俺は、あの子が、蒸し返すわけじゃないけど、仮に山口美甘子じゃない違う源氏名であって、その行為が終わってても、この話は成立したと思うんよ。
そりゃ、受けての感じは違うだろうけど。そのケンゾー自体の一本、線が抜けたっていうのは、俺は全然違う話だと思わへんし。
結構、こうゆう言葉遊びって、この小説あるんすよ。あの、山口美甘子が大林森監督に、「お前、どんな役者になりたいんだ?」って聞かれて、ナスターシャ・キンスキーって言うんすよ。
ナスターシャ・キンスキーって、「パリ、テキサス」の娘役とかで出てた女優で、最近だとリンチの「インランド・エンパイア」とかに出てたんですけど、その女優が十五歳の時に、「テス」っていう映画で、ロマン・ポランスキーっていう監督と一緒にやってて、その時、ロマン・ポランスキーは40歳やったんやけど、25歳の差を超えて監督と熱愛してたんよ。そのナスターシャ・キンスキーという女優は。
で、美甘子は、ナスターシャ・キンスキーになりたいって、この時に言ってるんよ。チョコ編で。
これは、既に予告なんすよね、ラストの。で、こうゆうのもラストの予告やけど、深読みしたら幾らでも






■ ハイジン

いや、それは暗示でいいんやない?






■ ニクロ

暗示やけど、要するにこうゆうお遊びってのがいっぱい






■ ハイジン

 それは、お遊びっていうよりは、仕組んでたってだけで、解る人だけニヤニヤ笑ってるって事やないん?
ラストの所で解るわけやけど。ただ、風俗嬢に関しては、お遊びやないと思うんよ。
それが、山口美甘子であるかないかで、全然違うんよ。
俺は、あの瞬間で物語が終わってしまった、って言っていいほどのものやと思うんよね。
ケンゾーの思想が、あの瞬間に変わってしまった、って俺は思ってるから。






■ ニクロ

うん・・・でも、そこは、俺はあいいれへんな、なかなか。








見る前に飛べという事








■ 電脳BOY

 こんな台詞があるんですけど、美甘子が羽村とキスしてる所で、美甘子がこうゆう事を言ってるんすね。
「頭良くなる為に色んな事を溜め込んで来たけど、羽村くんとキスをした方が、何よりも体験として重要とゆうか、大切って事に気がついた」って。






■ ニクロ

それは、やっぱり爺さんの「見る前に飛べ」って事じゃない?






■ 電脳BOY

そう。そこがこの小説の中心部分にあると思って。






■ ニクロ

 やっぱり、大槻ケンヂ自体が、学生時代は頭でっかちで、でも、何処かで童貞を捨てて、何処かでバンドを始めて、ライブに立ったっていう衝撃が、知識量より遥かに経験として大きかったんやろうな。
でも、それが全ての小説というか、一言で言えば「お前ら、色々読むのもエエけどちゃんと動けよ」みたいな。
「体験しろよ」みたいな事が全てやんか。たぶん、それが大槻ケンヂの経験上の教訓みたいな事やと思う。
 だから、爺さんと殴りあうのも、本当は爺さんと殴りあうシーンもさ、「おい、爺さん何で殴りあいで解決する?」っていう大槻ケンヂの突込みがあってもおかしくはないんよ。話としては。
だって、急にさ、読んでる方も「えっ?ボクシングするの?」ってなるやん読んでて。
「何でボクシング始まる?」って思ってて、今までは急に変な事が出たら大槻ケンヂが突っ込めてたのに、そのボクシングに関しては結構スルーなんよね。
って事は、大槻ケンヂ自身が殴り合いって事は必ず体験してるんよ、人生の中で。そこで、切り開いたものがあった筈なんですよ。
大槻ケンヂって、タイとかインドとかにも行ってる話しがあったから、たぶん、パイン編である山之上がインドに行くとか、インドに行きたいって話しも、大槻ケンヂが経験した事が、考えた知識を上回ったから小説に出るんやろうなと思うけど。






■ 電脳BOY

あれだよね、パイン編は危ういよね、小説として。
あそこに大槻ケンヂの突込みがあったら、成立しないような気がする。
台詞とか、流れとかはおかしいけど、普通の文章は結構真面目に書いてるやん。後半の方とか突込みとかなしに。






■ ニクロ

 というより、まずグミ・チョコレート・パインのグミ編は、あとがきか何かでも書いてるけど、最初は中篇のつもりだったっていう。
やっぱり、グミ編読んでると、「〜回これは大橋健三が。。。」みたいな始まりあるやんか?
たぶん、あれを書きたいから始めた事の気がするんよね、グミ編って。
で、だんだん書いていく内に、話がどんどん広がっていって、で、爺さんが最終章で「見る前に飛べ」って言って、「見る前を飛べ」を言葉にするんて、トータルで最後までやったら相当時間掛かるな、って大槻ケンヂは思ったと思うんよ。
だから、一回チョコ編であそこまで書いて、かなり間が空いてしまったんやと俺は思うんやけど。






■ 電脳BOY

それよりは、流れで書いている気がするんすけどね。
グミ編書いている時は、結末はそんなに考えてなかったんじゃないかな。






■ ニクロ

いや、全く考えてないやろ。チョコ編もそんなに考えてないやろ。






■ 電脳BOY

キャラクターが動くのを待ってるっていうか。キャラクターが話を作っていくみたいなスタンスやんたぶん。






■ ニクロ

結局だから、グミ編は詰め込めるだけ詰め込もうって書き方やん。






■ 電脳BOY

しっかり書いたら、もう一冊出来るからね、グミ編に関しては。






■ ニクロ

 こうゆう、今までにはおらんかった主人公像を作って、だから、最初の方の一個一個の突っ込みの長さって凄いもんね。
少年が精通するまでの話とか、むちゃくちゃビッシリ書いてるやん。
あの辺はやっぱり、書く事が沢山あって、これとりあえず詰め込んで、ある程度まとめたら中篇になって終わるんだろうなって思ったのが、だんだん、だんだん思いもせんうちに膨らんでいったんやろうなっていう。








エンターテイメントとしてのグミチョコ








■ ハイジン

パイン編はね、シンクロしてるもんね、大槻ケンヂ自身がケンゾーに






■ ニクロ

それは、グミ編からやと思うけど?






■ ハイジン

 だから、パイン編ってのは、突っ込めないっていうような空気になってるんよね。
茶化す人が、フェードアウトしてるっていうのは、単純に大槻ケンヂ自身が、それに対してどうこう言うような話ではなくなってると思うんよね。
そうゆう、第三者の目っていうものが消えてるっていうのは。ここは結構、切実に感じるんよね、そこを。






■ ニクロ

 それを言ったら、そもそもチョコ編からパイン編に移る間やったらさ、まだ全然、今までのタッチでも良かった筈やのに、もう全然タッチ変わってるからね、パイン編の頭から。
これは、やっぱり大槻ケンヂ自身が色んな事を経験したから、やっぱり書き方もそうやし、物語の筋も全部変わっちゃたんだろうなと。
やっぱり、一貫性のもんじゃないからね、これは。






■ ハイジン

 冗談っぽく、なくなったんじゃないかな、と思うんよね、パイン編に関しては。グミ・チョコと来て。
結局、書けなかったって事やと思うんだけどね。パイン編に関しては、途中、途中、結構ガチになったりしてるから。
特にカワボンがケンゾーに「ダメじゃねーだろ」って言う所とか、ケンゾー自身に大槻ケンヂが言ってるんじゃないかなっていうね。
 ただね、間違えちゃいけないのが、最初にも言ったように、作者の大槻ケンヂが人生経験を凄い積んでて、ある程度の知識と成功を収めてるから書けるのであって、ケンゾーというのはリアリティーというものは全然ないんよね、本当は。






■ ニクロ

いや、俺は、現実ではないとは思ってたけど、現実に近くはないとは言わないと思うけど。




 



■ ハイジン

もちろん、現実よりも現実っぽいんだけど。






■ ニクロ

それも変やと思うけど。






■ ハイジン

現実より現実っぽいっていうのは、凄い思考の凝られた人工物やからなんですよ。






■ ニクロ

ケンゾーが?






■ ハイジン

ケンゾーが。






■ ニクロ

じゃあ美甘子は「象徴」で、ケンゾーは「人工物」という作品なんですか、これは?






■ ハイジン

 うん。本当に映画一つをとってみても、俺からしてみら、大橋健三っていうのは、工藤新一みたいなもんやと思ってるんよ。
「名探偵コナン」のね。工藤新一は何でも知ってるんすよ。
野球の事件が起きたら、野球のルールも全部把握してるし、麻薬の事件があった時は、麻薬について知ってるんよ。
それは、「名探偵コナン」の作者の周りに優秀なブレーンがいっぱい居るから書けるのであって、工藤新一というものは、「人工物」なんすよ。
それは、大橋健三も同じであって、大橋健三が何でも映画を知っていて、周りに居る友達も何でも知っているというのは、それは






■ ニクロ

別に、何でもっていう程では。






■ ハイジン

いや、何でもっていうのは、いちいちツボを押さえるんよ。






■ ニクロ

いや、ケンゾーくらいの奴は、めっちゃおるよ、本当に。






■ ハイジン

 めっちゃおるのは解るんだけど、それを丁度よく押すっていうのが、ケンゾーなんすよ。
読んでる人が、いちいち、「あっ」と声を出すのが






■ ニクロ

 今、言った「人工物」っていうのが、ケンゾーが工藤新一のように何でも知ってる、そのツボを抑えるってのは解るんやけど、別に、ケンゾーは間違いなく知らない映画の方が多いわけやから。当たり前やけどそんなの。
それは、大槻ケンヂが出したキャラクターやからさ、幾らでも映画なんて調べようがあるから出せると思うけど、それが「人工物」って事ではないんやない?
ツボを押さえるって事は、命を吹き込んだキャラクターでもやるけど。知ってるってのも、神がかって知ってる方やけど。常人超えて知ってる方ではないし。






■ ハイジン

 常人を超えてるってのではなくって、いちいち押さえてるんですよ。
映画好きのツボっていう所を。これは、狙い打ちでやってるんだけど。






■ ニクロ

 別にだって、ケンゾーが抑えてるのって、基本的にアイドル映画と、B級SF、B級ホラー、B級サスペンスくらい。
その辺のゾーンって、結構ヲタクになると居るんよね。
で、途中でフェリーニの「道」をモロコが見て感動して、イタリアにパントマイムを学びに行くとかいう小話も入ったけど、ああいう古典作品なんかは、他は全く出て来ないんよね。そうゆう所は抜きにしてるやんか。
で、そうゆう所を突っ込まれたら、ある程度は知ってるんやろうけど、たぶん俺の方が知ってると思うんよ、そっちのゾーンだったら。ホンマに。これは、ケンゾーと言い争うというわけではないんやけど。
だから、これくらいの奴は、仮にツボを抑えてる人が何人かおって、「この映画はどうですか」「この映画はどうですか」「この映画はどうですか」って、さっき上げたB級ラインを答えられる人は、普通におるよ。






■ ハイジン

 もちろん、おるけども。それを、書くとするやんか。どうのこうのと。
いちいち書いていってても、ツボを抑えなきゃ、わかんない人はわかんないんよ。
何を言ってるのかも。だから、その引き、押しの場面を物凄く凝られてるんよ、これは。
読んでて、ケンゾーに対してどうゆう趣旨があるのかってのが、ハッキリと伝わるとゆう所、この辺に物凄い人工物を感じるんよ。






■ ニクロ

別に、小説には幾らでもそうゆうキャラクターって居そうだけど。






■ ハイジン

だから、高校生のリアリティーを追及してるように見えるけど、高校生ではないって事が、俺には凄い来るんよ。






■ ニクロ

それは、ちょっと穿った見方やない?






■ ハイジン

 あの、松本人志が「シネマ坊主」で、色んな映画スターが出てる戦争映画かの批評で、汚いロケ地なんだけど、監督のカットの声がかかった瞬間に、そのスター達がディレクターチェアーに座って、横のマネージャーがコートをかける様子が画面から見えてくる、って事を言ってたんだけど、俺も何度かこの小説にはそうゆうのが見えるんよ。
ケンゾーの裏側に、大槻ケンヂという知識人の影が。
これは、高校生が切実に訴えかけるっていう事を、大槻ケンヂがコントロールしているのが解るからなんよ。ケンゾーという人物を。






■ ニクロ

言ってる事は解るけど、これくらいのツボを押さえる系のキャラクターは他小説にも幾らでも居るし、そいつらも「人工物」になっちゃうんなら、ほとんどの小説の主人公は「人工物」やと思うけどね俺は。






■ ハイジン

だから、等身大として。






■ ニクロ

高校生という肩書きって事?






■ ハイジン

 例えば、高校生っていう肩書きもそうだし、ある程度俺の中では、悩んでるとか、自分に対してモヤモヤしてる気持ちがあるんだけどそれを表に出せない、っていう高校生の目線に立ってケンゾーという人物を造り上げているように見えるけど、結構、上からケンゾーという人間を大槻ケンヂは作ってるように見えるんよ、すごく。
俺は、結構その影がチラチラ見えるんよ。俺だけかも知らないけど。






■ ニクロ

うん、俺は全然、見えない。それは、経験にもよって違って来るんだろうけど。






■ ハイジン

 だから、俺には、エンターテイメントとして分野で凄い一品やと思うんよね。
切実のようであって、でも、凄い「人工物」であるという事が。だからこそ、受け皿が広いんよね。
誰にでも当てはまるように出来てるっていうか。
 この小説の凄い所は、この小説を読んだ人は、まあ、全員とは言わないけど、多くの人が、「この小説は俺の為にある」とか「この小説を俺が一番理解出来る」って思うんよ。突き刺さっ来るんよ、胸に。
そうゆう風に感じるような魔力があって、魔力があるんだけど、作者がケンゾーみたいに切実に、必死に書いてるんじゃなくって、ある程度の知識と成功があるからこそ、大きな受け皿があるんよ。
だから、俺は決して全てが切実ではないよ、って事を言いたいんよね。






■ 電脳BOY

(エンターテイメントとして)上手く作ってるような?






■ ハイジン

そうゆう事です。では、時間なので、今回はここまでで。



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