ヒミズ論

自殺のススメ






2009年8月27日 更新


あらすじ



笑いの時間は終わりました・・・


これより不道徳の時間を始めます。







作者 :古谷実
単行本 :全4巻
出版社 :講談社
連載 :週刊ヤングマガジン 2001年第9号〜2002年第15号













 2001年に第38回文藝賞を受賞した綿谷りさのデビュー作「インストール」は、冒頭このような主人公の語り口から始まる。




自称変わり者の寝言

「私、毎日みんなと同じ、こんな生活続けてていいのかな。みんなと同じ教室で、同じ授業受けて、毎日。だってあたしにには具体的な夢はないけど目標はあるわけ。きっと有名になるんだ。テレビに出たいわけじゃないけど」
光一にそう言い終わった後私は、これは甘ったるいなあ、とぼんやり興ざめした」




 2000年前後のJ-POPシーンを引率した「青春パンク」ブームの中で、中心的なグループに位置づけられたGOING STEDYのラストシングル「青春時代」(03年4月)のサビでは、このようなフレーズが連呼された。




ああ 僕は何かやらかしてみたい そんなひとときを 青春時代と呼ぶのだろう




 自分の自意識と戦い「俺はその他の俗人間とは違う」という思いを刷り込み、戸惑い、悩み、苦悩を続けた大槻ケンヂの半自伝的小説として1993年にスタートしたグミ・チョコレート・パインの、完結版「パイン編」(03年4月)では、作者は最後、主人公のケンゾーに一人の人間としての「地に足のついたまっとうな生き方」をエンディングに用意した。
 これは、93年〜94年に連載された同じく主人公が自意識と戦い、芸術と普通の狭間でもがく、さくらの唄が、ラストに主人公の途方もない成功を用意した事とは、全く相反している結果となる。




先のインストールの中で、主人公の語りにこのようなものがある。




(中略)この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたいわけじゃない、作家になりたいわけじゃない。
でも中学生の頃には確実に両手に握り締める事が出来ていた私のあらゆる可能性の芽が、気づいたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい。




GOING STEDYの「青春時代」の歌詞ではこのような言葉が叫ばれる。




可愛くて憧れだったあの娘が今じゃ歌舞伎町で風俗嬢だとよ 
PKを決めて英雄だったあいつが 今じゃ小さな町の郵便屋さんさ
とても幸せなはずだっていうのに なんだかなんでか涙が出るよ




 先にも出したように、93年に漫画と小説、違った分野でスタートしたグミ・チョコレート・パインさくらの唄は、違うテイストを含みながらも、主人公が自分への価値で思い悩むというエッセンスを含む青春作品とて存在していた。
しかし、93年に完結したさくらの唄が、主人公の徹底的な成功(それは読者が困惑するほどの)をラストに用意したのに対して、03年に完結したグミ・チョコレート・パインは、主人公の自意識との卒業、健全なる大人としての昇華をラストに用意した。




 これらの思考の変化は、全て00年前後における若者の思想の変化に代表されるモノである。
「自分には何らかの可能性がある」と、その事に対しての自意識の狭間で悩みつつも、それを思春期における通過儀礼として消化して、自意識を凌駕し、それを卒業して大人になっていく事こそが2000年代前後に強く謳われた新しい若者の思想なのである。
 インストール(01年)では、それを半ば自覚的(メタ的)に意識して、「青春時代」(03年)では俯瞰的に歌として叫ばれる。
 そして、その思想の究極となるものを突きつけた漫画こそが、01〜02年にかけてヤングマガジン紙上で連載された古谷実の4作目の商業漫画「ヒミズ」である。




ヒミズは物語の冒頭で、「期待しない事」が主人公の住田によって強く説かれる。




第1話「大海の一滴」

「宝くずが当たると思うか? 森で3億円拾うと思うか? 自分にとてつもない才能があると思うか?
俺が思うにそれらは単に運の良し悪しではなく この世を司る何者かによって選ばれた者そう『特別な人間』だ。
そんなヤツはめったに居ない。ほとんどの人間は、超極端な幸不幸にあう事無く一生を終える。
『普通の人間』。オレは自分を『特別』などと思っている『普通の人間』のずうずうしい振る舞いがどうしても許せん。ぶっ殺してやりたくなる」




 まず、念頭に置かれるこの事は、住田が自分の事を「普通」であると前提としていて、「特別」な人間などほとんど居ない、世界にほんの一握りしか居ない事が説かれているのである。
そして、同時に「期待しない事」をも、ここでは宣言されている。
つまり、多くの人間は「普通の人」であり「特別な人間」にはなれない事が、強く謳われる。
もちろん、この時点での住田には、先にも述べている「自分には何か他の人とは違う何かがあるのではないのだろうか?」という、若者特有の自意識から来る思想に強く悩んでいる。
いわば「特別」と「普通」の間にまだ、何かしらの可能性を信じていて、それを「期待しない」という事、つまり「特別な人間」などは、ほとんど居ない、と自分に強く言い聞かしている。
 だからこそ、自分が「特別」などと言う人間に強い憤りを覚えているのである。
「期待しない事」とは、住田が自分が「特別な人間」ではない事を、受け入れる、納得する為の装置として機能しているのである。
自分は「普通」の人間である(そうに決まっている)。
だから、自分に「期待しない」。自分が、「特別」であるなどとは思わない。
住田の悟る「オレは普通に生きたい」という思想は、同時に「オレは自分が『特別』かもしれない、という事を期待しない」という、早い予防線の役割を果たしている。
 また、同時にこの物語はそんな住田の「普通」と「特別」と「期待しない」という、この三つを軸として物語が展開する事となる。




 しかし、何故、住田は自分が「特別」である事を「期待しない」でいなくてはならないのか? 
これは、00年代前半という当時の時代背景が大きな起因となる。
01年連載開始のこのマンガの主人公の住田は15歳なので、物語の設定上、住田はおおよそ86年頃生まれという事が予想される。
 この世代(82年〜86年)の特徴の一つに斜陽していく日本経済を小さな頃から見つめ続けていて、まだ意識の芽生えぬか、生まれた頃がバブルの経済の絶頂期で、物心がつく頃にバブルの崩壊。平成不況が謳われて、多感な小学生の時代に「阪神淡路大震災」「地下鉄サリン事件」「神戸連続殺傷事件」と、世紀の大事件を次々と目の当たりにして、いよいよ社会に出る為に羽ばたこうとする高校生時代には、就職氷河期と、常に絶望の世論を提示され続けた世代なのである。
 だからこそ、未来=自分の中の可能性、を素直に信じる事が出来ない世代でもある。
GOING STEDYの「青春時代」は、そんな信じる事が出来ない自分の可能性を、哀愁に乗せてストレートに表した当時の若者の気持ちを代弁する最も優れた曲なのであった。
住田の指す「特別」とは、極端な幸不幸が最もたるものになる。
物語上では、「幸」としての象徴に、「大きな才能」が存在していて、漫画賞を受賞したキイチこそが、「幸」を手にしている人物として明確に描かれる事になる。
 また、「不幸」としての象徴が「犯罪」であり、「父親殺し」で、住田は父親を殺した瞬間から、自分が『特別』な人間へと堕ちていく事になる。
この物語の最大のからくりはココにあり、物語の当初、自分には「特別な才能」などない普通の人間であって、自分に対しての一切を「期待しない」というスタンスを持っていた住田は、父親殺しを犯した後に、自分が不幸側の「特別な人間」だと徐々に認識するようになる。




父親を殺した直後の住田の思想




第18話「お別れです」

「オレはもう普通じゃないぞ・・・。特別な人間だ・・・。気をつけろ、悪い方で特別だぞ・・・・」




 住田は、00年代前半における若者の思想のエッセンスの塊のような存在である。だから、住田は自分の未来に期待しない。
そして、その事を強く自分に言い聞かしている。何度となく自分に言い聞かしている。
「普通」に生きる事が一番いいと。何度も自分に言っている。
つまり言ってみれば、「特別」を意識しないように、しないようにと考える事=00年代前半における若者の思想。未来(自分の将来)に期待は出来ない。
だから、最初から自分は「特別ではない」と刻印を押す=普通の人間が最高だという事。

つまり言ってみれば、「特別」を意識しないように、しないようにと考える事=00年代前半における若者の思想。未来(自分の将来)に期待は出来ない。
だから、最初から自分は「特別ではない」と刻印を押す=普通の人間が最高だという事。




第1話「大海の一滴」

「要するにだ・・・普通ナメんな!普通最高!!・・・っていうお話だ」




第9話「がんばれよ」

「親に捨てられて、一日中働いてる中学生なんて、もう普通じゃないよ・・・」
「オレ自身はまだ、ギリギリ普通だと思ってるよ」




 けれど、幾ら「普通」である事が最高であると信じて、「特別」になる事を「期待しない」と強く言い聞かせていても、それでも、なおも心の何処かで住田は「自分」に「期待」をしてしまう。
「それでも、もしかしたら・・・」を、住田(若者)はいつも心の何処かに持っている。




第41話「出たよ」

「茶沢さん!! オレやったよ!! 奇跡だ!! やっぱりオレは特別な人間だったんだよ!!」




 やはり、住田は「特別」などというものは、ほとんどの人間には存在しないと認識しつつも、誰よりもその事を意識していると言える。
しかし、この物語ではある明確なテーマを描いている。
未来を否定しつつも、「それでも、もしかしたら・・・?」と、根拠無き希望を遮断する言葉、「でも、どうせダメ」。
 この言葉こそが、00年代の若者を強く縛りつける怨念のような言葉であり、ヒミズの全てを覆い尽くす思想なのである。




期待しない、(自分の将来に)未来はない → でも、それでももしかしたら・・? → でも、どうせダメ





 「ヒミズ」の世界とは、人間の持つ希望の最下層、「それでも、もしかしたら・・・?」という、希望的観測による最後の頼みを真っ向から否定する物語である。




「でも、どうせダメ」




 この言葉こそが、ヒミズの確信部であり、ヒミズの描こうとする世界=00年代前半における若者の歪曲思想の中心部となる。




 この言葉は、作品中では住田にだけ見える「怪物」として登場する。
怪物とは、不可能性の象徴であり、最終話で怪物言う言葉。




「決まっているんだ」




 この言葉は@期待しない、(自分の将来に)未来はない → Aでも、それでももしかしたら・・? → Bでも、どうせダメというサイクルが、既に最初から設定されていた運命である事を暗示する言葉となる。
また、それは幸せになれる人は幸せになって、不幸になる人は不幸になる。
勉強が出来る人、容姿がいい人、スポーツが出来る人、金持ちの家に生まれた人、そんな些細な所から勝ち組、負け組は始まっていて、冴えないヤツは一生冴えない、モテないヤツは一生モテない、イジめられるヤツは一生イジめられる。
犯罪を犯すヤツは、最初からその運命にいる。
一度負け組みに入った人間は、一生その位を変える事が出来ない。
人生の全ては既に「決まっているんだ」という、その事実を叩きつける作品こそが、「ヒミズ」なのである。



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