千と千尋の神隠し








あらすじ

10歳の女の子、千尋は、無愛想でちょっとだるそうな、典型的な現代っ子。
両親とともに車で引っ越し先の家へと向かう途中に、いつの間にか迷い込んだ「不思議の町」。
町の屋台にあった料理を勝手に食べた両親は、豚に姿をかえられてしまう。
ひとりぼっちになってしまった千尋は、「千尋」という名を奪われ「千」と呼ばれながら、生き残るためにその町を支配する強欲な魔女・湯婆婆の下で働き始める。
そこで、千尋は怪しい神様やお化けに交じって生まれて初めて懸命に働く。
ハクや河の神などと出会い、様々な経験とふれあいを重ねるうちに、千尋は徐々に成長していく。
はたして千尋は元の世界に帰れるのか…?


原作・脚本・監督: 宮崎駿
制作: スタジオジブリ
配給: 東宝
公開日:2001年7月20日
上映時間: 124分












■ ハイジン

 それでは、八作目、2001年公開の「千と千尋の神隠し」なんですけれども、日本の歴代NO.1を誇る作品で、興行収入304億円というメガヒットを記録した映画なんですけれども、ベルリン国際映画祭金熊賞をはじめ、アカデミー賞長編アニメーション部門を受賞したりと、そういった受賞歴も含めて、宮崎映画作品の最高の位置に君臨する映画なんですけども。
まずは、この作品に対する評価ってものを聞いてみたいんですけれど。






■ ニクロ

 評価というか、俺は、非常に好きですね。
やっぱり、今までの宮崎アニメが描いて来ていた、日本古来の伝統的な面白さみたいな所を、完全にリニューアルして見せてくれたっていうのが、やっぱり、面白いというか、例えばトトロにも妖怪というか、ちょっとしたお化けも出てくるんですけど、ああいうモノ達を純粋に宮崎駿が作り変えたんだなと、神様だとか、マスコット的なヤツも含めて、娯楽要素に飛んでいるんですね。
そうゆうものを、ジブリがどうどうと提供してくれるのは、嬉しい事だなと思って。






■ ハイジン

マスコット的な要素って言いますけど、いわゆるトトロというジブリで一番有名なキャラクターに対して、千と千尋に出てくる神々達っていうのは、そうゆう可愛さとは違うじゃないですか。






■ ニクロ

 まあ、そうなんですね。一種の不気味さなんですね。
で、ただ、全く持って好きになれない、嫌悪感を持つのか、と言ったらそうではなくて。
何か、懐かしいんだけど、新しいモノを観ているって感覚が千と千尋には常に溢れているんですね。






■ ハイジン

色彩というか、色というものがなんか。






■ ニクロ

 言い方はあれですけど、ちょっとグロいんですよね。一種、見せ方というか。ドキッとさせられるというか。
トトロは作ってる最中にも、懐古主義を狙ってるみたいな所はあるんですね。新作として出された時にも恐らく。
千と千尋は本当に、そうゆうものを扱っていながら、打ち出そうとしているのは凄く新しい事なんで。
この頃には、凄い高齢だったと思うんですけど、物凄く挑戦的な、エネルギッシュな作品だと思いましたね。
そうゆう意味では、俺は、ハウルポニョよりもエネルギッシュな作品だと思ってるんですよ。
もののけ姫よりも全然、エネルギッシュな作品だと思っているんですよ。






■ ハイジン

もののけ姫では、作画のパワーを論じたわけですけど、千と千尋ではそういった事よりも、色合いだとか。






■ ニクロ

そうですね。佇まいのパワーというか。






■ ハイジン

魅せてくれるんですね。






■ ニクロ

 単純に絵が凄いとかじゃなくて、もっと力強い所に押し出されているというか、単純にそれが何かわからなくても、わかんなくてもいい、記号みたいな所があるんですね、キャラクターに。
そういった凄さってものを、千と千尋は持っていて。
その辺が、もののけ姫がある程度のフォーマットを持って作られた感じから解き放たれた感じがするんですよ、宮崎駿が。
どうしても、ものの姫っていうのは、ある程度ベースになってる所はかなり大きいと思うんで、どうしても俺達はあれを観て、昔の日本であったり、もちろん、昔の日本なんでしょうけど、いわゆる昔ながらの生活感というか、どっか知っている所を、上手く利用したって感じなんですけど、千と千尋に関しては、そうゆうものを利用しながら全く新しいですからね。
そこがやっぱり、もののけ姫よりも売れたという、もののけ姫の後だと、どうしてもそれよりも下になっちゃう感じなんですけど、力がなければ。
それを、全然、乗り越えているというか。補って余りある所が凄いですね。








物語の出入り口








■ ハイジン

 ちょっと、作品の構造についての話をしていきたいんですけど。
キャッチコピーだったか、だと思うんですけど、「生命力」って言葉があるじゃないですか。
視聴者は純粋に千尋目線に立って観ていくわけですけど、単純に千尋の生命力を軸とした成長物語として捉える事が出来るわけなんですね。
それで、冒頭から両親が一切千尋に関心を持っていない、という。
それでいて、始まって10分ほどで両親はブタになっちゃうんですね。
これは、単純にブタってのは比喩として捉えていいと思うんですけど、日本の大人は食って体ばかり肥えたブタだという。






■ ニクロ

 ブタっていうよりは、俺は、宮崎駿のブタというのは、結構、色々な意味があって、様々な作品で出てくると思うんですよ。
ただ、それぞれのブタに持つイメージが違うと思うんですよね。
で、千と千尋に関してのブタは、ある種の愚鈍さというか、無関心さみたいな所が力強いと思ったんですね。






■ ハイジン

まあ、飯食っててブタになっちゃうというのは。






■ ニクロ

 それは、かなりストレートというか。若干、笑っちゃう所なんですけど、結局、現代の大人というのが、あまりにも色んな所に目を向ける余裕がないというか。
でも、向けすぎると、それはそれで病んでしまうから、それが、一つの無関心というものを生んでると思うんですけど。
そうゆう事の象徴の入り口だったって気はするんですけどね。食べるという行為から、ブタになるという当たり前のイメージが。






■ ハイジン

 千と千尋の構造としては、入り口と出口がハッキリしている作品だと思うんですよね。
まず、入り口は両親が居て、一緒に車に乗ってるって所じゃないですか。
で、出口も両親が居て車に乗っているんですね。ただ、この間の部分には、さっき言ってたきらびやかな映像美の中で、神々達がわんさか居るという非日常的な世界なんですけれど、この非日常の世界を千尋は自分で打破をしていくわけなんですね。
でも、打破をしていく中の最後で、それまでの非日常の世界を全て蓋をしてしまうんですよ。
この構造ってのは、トトロではトトロとの出会いによって、非日常が始まるんですけど、トトロは帰る事無く非日常のままでトトロの世界は終わってしまうんですよ。
ただ、千と千尋の場合は、神々達との戯れに、最後、ハクが「振り返っちゃダメだ」って言って、結局、千尋は振り返る事無く、(非日常から日常へと)行って、両親と出会う事により、非日常は忘却の彼方に捨て去って蓋をするわけなんですよ。
全ては、夢物語であると推理も可能な構成になっているわけなんですよ。
 例えば、千尋が母親にコハク河について尋ねるようなシーンがあれば、そうすると、この物語はアレは千尋の夢ではなく、実際に起きていた事として終わってしまう事になるんですけど、あそこで千尋が何も言わずに終わる、振り返らずに終わるという事は、あの世界(非日常)を蓋しちゃって、入り口と全く同じ場所に、出口が繋がっているんですよ。
だから、あの神々との戯れとの空白の部分は、完全に蓋がされてしまって、現実としての出来事であるかを、ちょっと曖昧にしてるんですね。






■ ニクロ

それは、いわゆるトトロ的なラストと、千と千尋の終わり方の対比というのは、主な理由としては時代の流れなんですかね?






■ ハイジン

 やっぱり、これは、先ほど話していた両親が関心がないという事と、両親がブタになるという事だと思うんですけど。
ようは、千尋の成長物語であり、そこには大人が一切関与していないんですね。
千尋がどう成長していくのか、という所に、大人によるアシストがなくて、純粋に自分一人の力で突き進むという、俺は、宮崎駿が大人というものを信じていない事の象徴だと思うんですけどね。






■ ニクロ

つまり、ラストの夢物語という推測を残しつつ終わるというのは、千尋が一人で切り抜けた生命力の物語を、もう大人に話す必要すらないという?






■ ハイジン

そうですね、現在の千尋としての子供達には大人というものを必要とすらしていないという、そういったメッセージだと俺は汲み取ったんですけど。






■ ニクロ

 うーん、なるほど、俺の解釈も一個あるんですけど。
トトロの時には、コミニケーション力ってものに、凄く長けてるんですね、子供が。
長けてるというか、大人がしっかりしているというか。あそこは、舞台が田舎だったというのも、大きいと思うんですけど。
今の時代、情報化社会に比べたらトトロの頃というのは、大人とあるいは近所付きあいでのコミニケーションというものが、まだ成り立っていた時代だと思うんですね。
で、千と千尋の無関心さ、千尋のコミニケーションのなさっていうのは、宮崎駿からしたら、本当に現代の問題というモノをちゃんと今の子供達に向けて考えるのであれば、大人がダメになれば、それに破状して大人もダメになるような所もあって、で、何故、大人が変わっていったかと言うと、社会的な背景も含んで話さなきゃならなくなるんだけど、あえてそうせず、千尋が無理くり働くという状況に置かれて、生きる力を取り戻していく、というのに絞ったのかといえば、たぶん、宮崎駿からしたら、トトロの頃の子供が当たり前と言うのが、あると思うんですよ。自分の時代に持っている、子供の本来の力というか。
で、今の子供ってのは、宮崎駿から観たら持ってなくて、可哀想というよりは、単に欠落しているようなイメージだと思うんですよ。で、それを根本的に解決するにはもっと社会的な映画になっちゃうんだけど、そうゆう事を抜きにして、千尋に強引に働けよというシチュエーションを与えて、トトロの頃のような当たり前に持っている生きる力を取り戻す話で、そこに行き着いちゃうと、ラストの「振り返ってはいけない」という所で、トトロが存在したとか、非日常として存在して終わったんじゃなくて、あったのかどうかって所では、結局、宮崎駿にとって、割と当たり前の所に、子供の生きる力ってのはあるけど、今の子供はそれが欠落しているから、そうゆうのを無理やり引き起こしてやるって物語だとすると、ラストで振り返るな、で、夢物語だったのかってのが、働くって行為が宮崎駿にとって結構、なんでもない行為だったんじゃないかと思ったりするんですよ。
昔の子供だったら、誰もが通過するような、まあ、昔の子供も働いてはいないけれども、それに変わるような事がたぶんあったと思うんですよ。生きる力を持つ上で。
 ただ、それを今の子供は、持ち合わせていなくて、それを無理やり与えてやるという物語なんだけど、その与えてやるって事に関して宮崎駿は特に特別な事と思っていないというか、子供としては当然通る所を、今の大人が与えてやってない感じがするんで、そこを宮崎駿が物語的に与える事によって、でも、それが当たり前すぎて、それ自体が実在する、しないの前に本当に夢物語でもいいんだというか、こうゆう事がありましたよ、という、事を強く打ち出すほどの事でもない気がしたんですよね。
つまり、夢物語であるというのは、宮崎駿にとって、子供本来の持つ当たり前の通過儀礼というか、強さだったって事を言ってると思うんですよ。
それが、一つの俺の解釈なんですよ、ラストにおける。








カオナシの存在性








■ ハイジン

 一人、重要人物というか、人物じゃないですけど、カオナシっていう存在がいるんですけど、ただ、カオナシ一つで全てまとめられちゃうという、欠点もあるんですよね。
俺は、これは欠点だと思うんですけど、ようは、カオナシを当てはめていけば全て成立するような話になってるんですよね。
だから、いわゆる物語に出てくる欠陥の部分を、全部背負っているんですよね。






■ ニクロ

 確かに、宮崎駿も「カオナシは誰の心にも居る」みたいな言葉を、CM的なキャッチコピーにしてはいたけど、本当の意味で言ったら、今の子供の欠落を、本当に再生物語として作るのであれば、もっと社会的になっちゃうんですよね、本当は。
もっと複雑なんですよ、今の社会の持つ構造というか、悩みみたいなものは。大人も子供も含めて。
ただ、それが宮崎アニメ2時間で処理仕切れない所まで来ちゃってるというか。だから、カオナシというキャラクターに委ねたのは、
そうゆう複雑さを孕ませながらという所ではあると思いますよ。
まあ、欠点というよりは、結構、元気玉の逆バージョンみたいな所はありますよね、カオナシって。
「みんなの悪い所をオイラにくれ」みたいな(笑) そうして、固まっていったのがカオナシみたいな(笑)






■ ハイジン

 カオナシの存在って、観ている時には、見落としがちなんですけど、まあ、寂しさみたいな所ですよね。
軽く説明を入れると、カオナシってのは一度ハクが居なくなった頃から出てくるんですね。
それは、千尋の寂しさってモノを背負っていて、それでいて、最終的には一人で住んでいる銭婆の家に住んでしまうという所では、現代に生きる人間が、誰しもが持つそういった孤独感みたいなモノを、一身に背負ってる存在ではあると思うんですけど。






■ ニクロ

 ただ、現代における心象風景の闇の形ってのがカオナシってのは、俺は結構新しいなと思ったんですね。
ちょっと前になると、いわゆる鉄コン筋クリート的な、本当に自分に囁きかけて来る、こっちの方が楽だろうみたいな。
このまま闇に落ちちゃえよ、っていうのは結構、一般的だったと思うんですよ。
ダークサイドに落ちた方が楽だぞ、って囁きかけるというか。
 ただ、今の現代社会の複雑な悩みというのは、そうゆうどっちかに触れたらっていうよりは、どちらにもそうゆう要素があるというか。
だから、カオナシが「こっちに来いよ」って囁きかけないっていうのは、そうゆう時代の弱さというか、人間の弱さがモロに出ている闇の部分の具現化って気がしたんですよね。
だから、どうもカオナシってのはなかなか、ありがちな闇のキャラクターのようで、新しいと思ったんですよ。






■ ハイジン

 なるほどね。それでは、ついでにハクの話もしたいんですけど。
ハクってのは、千尋を導いてくれる、千尋の見届き人として登場しているんですけど、途中、ハク自体が捕らわれて、千尋はハクを取り戻しに行くというような、転換といいますか、状況が変わってしまうわけなんですね。
で、これは、ハウルのモチーフとしても使われているんですけど、人間の姿から動物へと変化して、それでいて戦争に誘うという、争いに自ら進んでいくけれど、結局は傷ついてしまう。それに対して、主人公が手を差し伸べるというハウルでもあった全く同じ構造が、千と千尋でも提示されていたわけなんですね。






■ ニクロ

 ハクというのも、結構、背負ってるキャラクターなんですよね。ようは、湯婆に名前を奪われて。
リーダー各のポジションにいながら、千尋にはイーブンで優しく接してやる、割とスーパーマンに描かれているんだけど、そのハクを助けたいという千尋の生きる力が、作品の最大のテーマになってるんですね。
あと、ハクと千尋の二人ってのは、堂々と言葉として恋愛感情が語られるんですね。
ガールフレンドが出来たっていう釜じいの言葉だったりとか、愛だよ、ってこれも釜じいの言葉なんですけど。
そして、次のハウルに関しては完全に恋愛物語に移行するという、だから、その助走なんですよね。
千とハクの関係というのは。もちろん、そうゆう描写はないんですけど。






■ ハイジン

 記号的な話になるんですけど、千と千尋も、ハウルも男が傷ついてしまうんですよね。
自らの手で困難を乗りきる事が出来ないんですよね。
で、女側から男を助けるという構造があって、それはやっぱり、宮崎駿の抱いてる母性による救済、というものがあると思うんですね。






■ ニクロ

まあ、そうですね。それは、結構貫かれていますよね。






■ ハイジン

では、これくらいで大丈夫でしょうか?






■ ニクロ

はい。






■ ハイジン

それでは、このくらいで。



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